24/12/30に参拝に上がりました。
神部神社・浅間神社総門右側に参拝者用駐車場あり。
静岡駅から境内近くまでバスが通ってます。
駅から歩いて行ける距離でしたが、行きはバスで帰りは歩きにしました。
神部神社・浅間神社大拝殿が平成令和の大改修実施中となっていて、漆と彩色の塗り替え工事が行われており、工事用の幕が張られていて見ることができませんでした。
考え方を変えれば、この様な機会に参拝に上がれるのはちょっと幸運かと。
工事が終わり見れるのは5年後という事なので、5年後再び参拝に上がった時の楽しみに。
境内には大歳御祖神社、麓山神社、少彦名神社、八千戈神社、玉鉾神社が鎮座しております。
麓山神社の拝殿左右に賤機山へのハイキングコースがあります。
私は山頂までの中間地点?位の慰霊碑の所まで登りました。
ここまでは整備されていてスニーカーとかでも問題無く登ってこれると思います。
ここから先は見ただけですが山道感がありましたので頂上まで行こうと思っている方はそれなりの準備と装備をした方が良いと思います。
静岡を代表する神社であり、今川氏や徳川氏をはじめ歴代の武将からも厚い崇敬を受けてきた静岡浅間神社。
境内には、南側からの参道突き当りにある大歳御祖神社、正面大拝殿の奥に鎮座する神部神社・浅間神社のほか四つの境内社があり、非常に規模の大きな神社です。
現在、20年がかりといわれる大改修事業が進行中で、大拝殿は工事用の幕に覆われています。そのため神部・浅間の両社には、幕に向ってお参りするような形になります。
それでも、改修成った華麗な楼門など、豪華絢爛な建築美の一端を味わうことはできます。
全体の改修が完了するまでまだ時間がかかりそうですが、その頃またお邪魔したいと思います。
12月31日の午後12時頃に知人とお参りしました。大晦日の昼頃でしたが、駐車場に入るまで約30分ほどかかりました。駐車場の入口が分からずで少し手間取りました。駐車場は無料。静岡駅から車で約25分ほどです。境内には多数の参拝客が居ました。正式名称の通り、神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社からなり、「静岡浅間神社」は総称、おせんげんさんと呼ばれています。
改修工事中で一部分が拝観出来ませんでしたが、綺麗で立派な神社です。
御朱印はスムーズにいただく事が出来ましたが、正月に配布(有料)する神納品(弓矢、絵馬、蛇の置物など)を求めて参拝客の並びがかなり多かったです。海外(中国人)の方もそれなりに多かったです。WEBで神社の画像などを見ると本当に歴史があって綺麗な造りなので改修工事が無事に終わって、完成した姿を早く見たいものです。
2024.12訪問時
静岡浅間神社
静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町102−1
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重要文化財...
建造物
神部神社浅間神社(23棟)
神部神社浅間神社本殿(附:棟札1枚)
神部神社浅間神社中門(2棟)
神部神社浅間神社透塀(3棟)
神部神社浅間神社拝殿(附:棟札1枚、絵図2枚)
神部神社浅間神社舞殿(附:棟札2枚、絵図2枚)
神部神社浅間神社楼門(附:棟札1枚、絵図2枚)
神部神社浅間神社回廊(2棟)(附:棟札1枚、絵図1枚)
神部神社浅間神社総門(附:棟札1枚、絵図1枚)
神部神社浅間神社神厩舎(附:棟札1枚)
神部神社浅間神社宝蔵(附:棟札1枚)
境内社麓山神社本殿(附:棟札1枚、絵図2枚)
境内社麓山神社中門
境内社麓山神社透塀
境内社麓山神社拝殿(附:棟札3枚、絵図1枚)
境内社八千戈神社本殿(附:棟札1枚、絵図3枚)
境内社八千戈神社中門
境内社八千戈神社透塀(2棟)
境内社少彦名神社本殿(附:棟札1枚、絵図1枚)
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鎮座地の賤機山は、静岡の地名発祥の地として知られ、古代より神聖な神奈備山としてこの地方の人々の精神的支柱とされてきた。6世紀のこの地方の豪族の墳墓であるとされている賤機山古墳(国の史跡)も、当社の境内にある。また、静岡市内には秦氏の氏寺である建穂寺、秦久能建立と伝えられる久能寺など当社の別当寺とされる寺院があり、その秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが当社の発祥であるともいわれている。
当地に鎮座して以来、当社へは朝廷をはじめ、鎌倉将軍家、今川、武田、織田、豊臣、徳川など各氏の尊崇厚く、宝物の寄進、社領の安堵などの事績は枚挙にいとまがない。ことに徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として当社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬した。
まず1555年(弘治元年)、家康14歳の時、当社で元服式を行った。そして1582年(天正10年)、三河・遠江の戦国大名となっていた家康は、今川氏が賤機山山頂に築き、武田氏に占領されていた城塞・賤機山城を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造した。さらに家康が大御所として駿府在城時の1607年(慶長12年)には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽を奉納した。
以来当社は、徳川家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願所となり、神職社僧の装束類も幕府から下行されるようになるなど徳川将軍家から手厚く庇護されるようになった。例えば、江戸時代初期の駿府藩主・駿河大納言徳川忠長は、この賤機山で猿狩りを行い当社の神の使の猿を狩ったことで、兄である将軍・徳川家光の逆鱗に触れたことが知られている。こうした経緯から、明治初年に至るまでの社領等の総石高は2313石にも及んでいた。
1930年(昭和5年)5月29日、昭和天皇が静岡県内を行幸。行幸先の一つとなる。
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2024/10/17 初訪問。改修は…あと5年かかるようです。素晴らしい神社なのは間違いないです。親切なお姉さんが…改修前の素晴らしい写真を見せてくれました。お姉さんにとって1番好きな神社なんだろうなと感慨深い気持ちになりました。自分にとっての茨城県坂東市の国王神社のような。お姉さんホントに…ありがとうございました😊